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In the mind:すとっぷのブログ。いろんなこと、考えたこと、思いついたこと、見つけた物の雑記
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ケスラーシンドローム (Kessler Syndrome) 

スペースデブリ発生の連鎖。1つのスペースデブリが衛星を破壊、破壊された衛星が数千のデブリとして飛散し、また他の衛星を傷つける。デブリは加速度的に自己増殖し衛星が次々と破壊されてゆく。


なんだか、人間の世界にも当てはまる気がする。

背負いきれない不幸、悲しみ、不条理、憎しみ、恨みを持ってしまった人が、他の人を傷つける。「傷ついた人」は加速度的に自己増殖を続け、次々と人が傷ついてしまう。


不幸・悲しみ・不条理・憎しみ・恨み・・・は無くならないが、
デブリ同様、一定量に押さえ込まないと、ケスラーシンドロームに陥ってしまうのでは。


負の感情は、形・真・理でもって・・・モノノケ、斬らねばならぬ。


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久々に、文章を書く作業をしたい。

Twitterが、楽で楽しい反面、少し私の知能を低下させた気がする。
ただいまなさい。

久しぶりに、文章書こうとすると、難しいな。

「人権」は普遍的な権利、正義みたいに考えられてるけど、動植物界で考えれば、差別的な発想・・・だとは思う。

しかし「人権」はこの世界の前提。カルト的にそれを信じるしかない。
この世界は、人のための世界。 そう割り切って、次に思考を進めるとしようか。

地球を大事に・・・も人間のため
生き物を大事に・・・も人間のため

それで良いではないか(割り切り)。

人間が他の人間に迷惑をかけることなく、楽しいとか、うれしいとか、おいしいとか感じることが、正義。

でも、始まりがカルト的だから、時々本能と対立して壊れちゃうんだな。

・映像の世紀のこと
・シンガポールのこと
・AIとかロボットのこと
・見失ってはいけないこと
・国富論のこと
・生き方のこと


順番はわからないけど、こんなことを書いていきたい。
はふ。

まず、就活が終わった事、ご報告します。


勤務地=羽田。

なので、国立離れる事になります・。・
そちらは一安心。


ちょっと、他にはかけなくなったから、一旦、舞い戻ってきました。

ただ、なんか上手く生きられていない気がする今日この頃。


空気が薄い。酸素がほしい。
原子力発電所で起ってる事は


物理現象だと思う。




以上。
一緒に受けているのは、体育会の2人。


「足で稼いで営業をやります!!」
「私も、自慢の体力で営業をやります!!やりたいです。」

「えぇ・・・私も体力とかは自信があってですね、ぜひ皆さんと一緒に営業をやりたいんですが・・・たぶん説得力が無いと思うので、電波と回線を使います。つまり広報・宣伝をしたいと思います!!今の時代に生まれて良かったと思います!」



以上。
 江國香織 さんの「つめたいよるに」という短編集の中に「さくらんぼパイ」「ねぎを刻む」っていう作品があるのですが、好きかも。




いろいろ書こうと思ったけど、言いたかったのはそれだけ。

お休み野菜。
原発事故のお話。責任問題について考えてみます。

 1:原発そのもの

 原発の存在、そのものが忌避するべき物という結論を持った場合について考えてみます。原発を建設して運用していた「東電」、それを許可した「国・政府」、「国・政府」を選んだ国民。「全部悪いけど、結局国民も悪い!!」というのは単純ですが間違いないと、思います。東電の株主、東電管区内の電力を利用してきた者等の受益者も責任を負担するべきでしょう。

 ただ・・・

 原発は絶対安全だ、と主張してきた者の責任は大きい、とも考えられます。
安全なら、原発はあって良い分けですから。それを基に組まれた政策でもあるでしょうに。

 さらに、他の政策と原子力政策の「抱き合わせ商法」、通常の送電と原子力発電の「抱き合わせ商法」こういった事を考えた場合、国民等、広範の人間が責任を負うという結論は受け入れがたいのかもしれません。

「私が原子力発電を選んだわけではない!」と。
「そんな選択をした覚えは無い」と。

そう思考すると、案外少数の者に責任があるという結論があるのかもしれません。


 しかし今回の結果は、「絶対安全」の言葉を信じたら利益が出るが故、詳しく分析する事をを怠り、取り入れてきた者。その2者の談合の結果とも言えます。

責任とは、なんとも複雑な話なのです。

 



 2:原発の災害対策が甘いとした場合

 ココでは、原発の存在は認めつつ、災害対策が甘かったという場合について想定してみましょう。もちろん、前項の場合と同様、国、国民、受益者の責任もあるとは思いますが、この場合、より少数の者に責任が絞られて来るように思います。国民は殆ど手を触れられないわけですから。多くの人は、組織構造、チェックシステムのみは考察できるかもしれませんが、後は感情にまかせて安全!とか危険!とか言ってるに過ぎないようにも見えます。

 規制さえクリアしてれば問題ないとし、本質的な安全対策、監視が甘い東京電力、そして原子力保安院このあたりに責任が集中してくるでしょう。

 もちろん保安院のバックは国ですから、そして国のバックは国民ですから・・・東電のバックは銀行ですから株主ですから・・・という話しにはなりますが・・・

 ここではもう一つプレイヤーが加わってきます。「反原発活動家」。東電や政府は彼らに対して「安全ですっ!!」と言うために、対策を怠ってきた側面があるようです。対策をしてしまうと「安全」ではない裏付けになってしまう、そう言う構造なようです。皮肉すぎます。

ですが、「反原発活動家」に批判を向けるのはとても変な話しだと思いますよ、私は。




 3:責任とは

 収集のつかない議論をしてしまいましたね。反省しています。

 先ほどまで、「意外と少数の者が責任を負うような構造」になっているというお話をしてみました。しかし、少数の者は責任を負う事が出来るんだろうか?責任を負ってどうするんだろうか?と考えた場合、目の前は暗くなります。むろん、給与返納などをはしていただきたい。これから慎ましく生活していただきたいとは思いますよ。もし何も起らなかったら、高給を得ていたわけですから。ハイリスクハイリターンですよ。

 ですけど、この事態に至って責任の全部を負うなんてそんな事、不可能です。という事は、負う事の出来ない責任を負っていた。一体どういう事なのでしょう。


 結局、責任とは抑止力やインセンティブであって、事が起ってからの「責任」はあまり意味を成さないと感じました。

 事が起った後で、誰かに背負きれない「責任」を負わせて生贄みたいにして感情的に満足したところで、実質的な問題は何一つ解決しない。だけれども・・・人間って感情を満足させるための生き物のようにも感じます。

だから人間って怖い。そう言う部分、あんまり好きじゃなかったりします。
誰かが見棄てても 守られるべき 魂は在るべき と。


 このように考えていくと・・・虚構に主体性があるように装わせて責任をとらせる事。この事が合理的に思えて来ます。

「国が悪い」「政府が悪い」「東電が悪い」人が傷つかなくて済む方法なのかもしれません。
ですが、人の主体性がどんどん虚構に吸い取られていくような恐怖も覚えます。


 こういう事考える日は眠れません。




 4:さらに思う事

 例えば東電の社長。いま彼はどんなココロモチなのだろうか。そして今、彼の友達は彼にどんな言葉を彼にかけているのだろうか。その言葉がやさしさに包まれたものであるという確信は、私には持てません。


 彼は仕合せになってはいけないんでしょうか?


 この少し不気味な感じが厭でたまりません。
 とくに私みたいな人間にとっては。



 今後、話しがどの様に進んでゆくのかな?
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